驟雨の標

東大院卒ド畜生が綴る、困った人の長話(記述言語版)

dayworks: 2019/06/16-22:

なんか会社辞めたら少しは休めるのか、或いはだらけてしまうんじゃないかと思っていました。実際週の初めは速度が落ちていました(その分考えることが増えました)が、その後私は私自身でどんどん加速して行こうとするので、ルールに縛られていない状態では私は身体を壊すまで加速してしまうという逆の問題が浮かび上がってきました。

今週はだいぶ頑張って、某企業の面接に対策するために「面接対策しよう!」と考え始めて気が付いたら100パターン以上の会話パターンを作って全部頭の中に入れたりしていたので、面接終了後から体調を崩しました。面接は対策した効果が顕著に出たので私的には満足です。苦手意識があることでも一旦ドハマりして火が付くと際限なく掘り下げてしまう傾向があるようです。

今回の日記選集からもう分量が多すぎてあらゆるカテゴリが付きすぎるので「日記選集」カテゴリ以外付けません。また週一発表だとアホみたいに量が多いので、noteでは細切れにしたものを書いたそばから公開しています。(noteはアホみたいに意識高い系コミュニティなので私の意識低い文章は絶望的にウケません)

 

 

今週の目次
6/22:一日中頑張っていたので何も書いてない
6/21:
「憧れ」
転職活動という思考ゲーム
6/20:
役者と変化:変化するものについての声優演技論
文理の働き方・評価格差
言いなり営業の絶望
6/19:暑くて何も書いていない
6/18:
事業の純粋性と専門人材の質
6/17:
コミュニケーション・ゲーム
二元論と判断
6/16:
投資と金の意味・労働の意味
無意識の地獄
創造性とルール
「熱」の抽象感覚
創造性の視差と退廃の箱の中

 

「憧れ」
ダ・ヴィンチ・恐山がヌートンでやってるアイマス実況動画を見て、そこからアイマスに興味を持ち、はやみん演じる高垣楓の楽曲を探し始めて"Pretty Liar"に行き着き夢中になってヘビーローテーションし、そのコミュを全編通して見て、そこから「憧れ」について考え始めるという狂人の連想ゲーム。最終的に今は何に行き着いたかというと、とあるピアノ曲をひたすら聞きながら考え続けている。

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自分自身が何に憧れていたのか、ということをずーっと考えていた。憧れるに足る人の存在は山ほどあった、というか私は馬鹿みたいに注意力を働かせて相手を観察する癖があるので、相当悪い奴でない限りはどんな人が相手でも少なからず憧れの感情を持った。私はウンコ垂れの薄ノロで体の弱い小学生であったためガキ大将のような子が大暴れして先生を困らせたり他の子供たちを支配して回っていることに物凄く憧れたし、頭も悪かったため勉強ができる子たちがテストで高得点を取って先生たちに褒められているのにもめちゃくちゃ憧れていた。要は何に対しても憧れを持つことを止めない子供だった。
・それが中学進学と同時に幾人かの凄まじい才能たちと出会ったことで私の憧れは収束していった。私の中学は何の変哲もない公立中学だったにもかかわらず、その年だけはいわゆる「当たり年」ド天才の巣窟みたいな学年だった。
・今でも思い出す。小学校最初の日に出会って友達になった私の親友は中学では学年トップの学力を身に付け大人顔負けの議論の才能を持った大天才として覚醒した(後に東大に現役進学し、今でも二十年来の親友である)。大天才にすら牙を立て、いつも不気味な微笑みを浮かべていたド天才少女(後に一橋大に現役進学)が学年二位に君臨し、私ともよくつるんでいた破壊行為大好きで熱い性格の男(後に東工大に現役進学)が学年三位、とにかく権力こそこの世の全てと信じて疑わない狂気じみた人物(後に法政大?に進学したらしい)が学年四位だった。その牙城を突き崩すことは殆ど無理だった。
f:id:weaverbird:20190623195051p:plain・私は四天王たちに手を伸ばす有象無象どもの最先端、つまり学年五位だった。どうやって手を伸ばしても彼らの立っている場所に手が届かなかった。それは歴然たる才能の差であったし、資質の差であった。ただしそれは生得的な能力的ギフトというよりは、「努力することを苦と思っていない」という精神的な構造の特殊性によるものだった。そう、彼らは中学生にしてすでに「努力することを何の苦とも思っていない人たち」だったのだ。私は四天王たちにあと一歩及ばず、彼らを最も近くでつぶさに観察し続けた人間として、彼らが何を考えてそんな奇妙な精神性を獲得したのかをずっと見つめ続けていた。 

f:id:weaverbird:20190623195214p:plain・私が心底震え上がったのは、中学生にして四天王たちは既に自分の生き方や流儀を殆ど完全に決定していたことだ。この人たちにはどう足掻いても敵うわけがなかった。何故ならば私は一切の人生の目的や生き方の流儀といったものを決めていなかったからだ。これではどれだけ努力したところで勝てるはずもない。
「天才」とはこういう者たちのことを言うのだと、私は中学生にしてこの世の人の不公平さを理解してしまったのだと思う。「どちらを向いて歩くか」を完全に決めることができた人間のことを「天才」と呼ぶのだ。

・"Pretty Liar"のコミュ中で速水と高垣はお互いの演じていた幻想をお互いに自覚し、その上でお互いの理想とする幻想(=嘘)を演じ続けることに価値があると理解した。私にとってこれは彼女たち二人が「天才として覚醒する瞬間」を疑似的に描いているシーンだと思っているのだ。速水と高垣はお互いにお互いの幻想をぶつけ合うことによって初めて「アイドルとして始まった」というシーンであると思う。
私はさ、何をしていけばいい?私の憧れは中学の時点で決定的に打ち砕かれていたのだ。どう足掻いたところで「迷う者」である私が彼らと同じ領域にたどり着くことなどないのだ。私の「憧れ」とは、「辿り着けないと分かっている星々に手を伸ばすこと」でしかなかったのだ。コミュ中における速水の言葉がものすごく私には突き刺さった。

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転職活動という思考ゲーム
・転職活動を「どう捉えるか」という話。
・その人の事情にもよるから一概には言えないが、転職活動の事を「転職できなかったら死ぬデスゲーム」と捉えてしまうと、先ず間違いなく精神を病むと思う。無理がありすぎるし、それこそ本当に自殺しなきゃいけなくなる。
・私は現在進行形で転職活動を続けているが、結局「転職成功できなきゃ死ぬ!」というような思いは捨てることにした。そんな意識を幾ら持っていた所でストレスがますます溜まるだけだから。
転職活動とはある種の思考ゲームである。自分というキャラクターが存在していて、能力値表を作る。自分は何処が優れていて何処が劣っているのかを冷徹に能力値として評価して、自分の人生の中で自分に付いている特殊ステータスを直視する。それはコミュニケーション能力なのか、鮮やかな創造性なのか、深遠なる哲学なのか、まあ何でも構わんけど、その気になって評価すれば確実に何かしらの特殊ステータスは誰にでも付いてる。そうするとキャラクター「自分」がどういう場面で活躍できて、また逆にどういう場面で弱いのかが分かる。日本企業は最強の完璧超人みたいなのを超薄給で雇おうとする(という建前を固持し続けている)から、自分の能力値表と照らし合わせて何をアピールするか、何をアピールせず黙っておくかを考えて、コミュニケーション・ゲームとしての面接対策を練る。これで良い。
・転職活動では平均19.2社応募して1社しか内定が出ないとか何とか。つまりハーバード大学卒業のド天才みたいな人でも、18.2社は落ちるのだ。「コミュニケーション能力が足りていない!」とか「我が社では使いこなせない!」とか適当な事を言って落とすのである。企業は「稀代の天才」ではなく、「それなりに使い物になる人」が欲しいのである。
・そういうことを考えて行くと、正直なところつまり「転職」とは「マッチング」だけである。自己分析を深めて輝かしい実績を大量に持ち込んでがっちりアピールしても、「傲慢です!」とか言われて落とされる事は大いにありえる(その実例が私の友人に居た)。そういう会社は能力ある人ではなく従順な人が欲しい訳で、そこに受かることはその人の特性から言って最初から不可能である。マッチングしてない。
・最もやるべき事は、自分自身の考えていることをちゃんと研ぎ澄ましておくことだ。憧れの企業が有ったとしても、自分の思想とその会社の思想が合致してなかったら先ずどう見ても受からない。が、その事は受けてみないと分からない。これが「マッチング」で成立する転職活動・就活の苦しさである。そこで落ちたからと言ってくよくよしていても全く生産性が上がらない。こんなもんは単なるマッチングを競い争うだけの思考ゲームなのである。自分の思考能力を高めるための鍛練でしかないし、それをこそ楽しむべきであろう。

 

役者と変化:変化するものについての声優演技論
早見沙織とか悠木碧とか早く結婚してくれ説から。大好きなアイドルや声優とか、ファンによっては「一生結婚しないでくれ」みたいな事をいう人もいるけど、私は全く逆。ちゃんと恋して結婚して、芸の足しにしてほしい
人間は男でも女でも、好きな人と一緒にいる事で明らかに「変化する」。
・何というのか、声優好きで役者好きな私としては、早見沙織悠木碧が結婚して人妻となったり、誰かの母となった結果「どのような演技をするのか」にメチャメチャ興味がある。一般的にはより色っぽい演技、艶っぽい演技ができるようになるとかいう話はするものの、あおちゃんのような物凄いロリボイスで艶っぽい演技ができるようになったら一体どんな化学反応が起きるのか全く想像がつかない辺りが楽しみで仕方がない。
・恋人を作る事だって結婚する事だって、人一人が大きく変わるには十分すぎるぐらい十分な事で、それが特に声優や役者といった職業の人の場合、変化が目に見えて演技に出て来るのが物凄い面白い。私ははやみんやあおちゃんが「変化した声」を早く聞きたい。
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・一人の声優さんをずーっと追いかけてると顕著に演技の質が変わるようなタイミングってあって、恐らくそこでこの人結婚したんやなと思う事は実際ある。重度の能登病で能登麻美子さんの作品をずーっと追いかけてきた経験がある人間としては、ご結婚を公表された2018年よりももう少し以前ぐらいのタイミングで急に出演作全般的に「よりしっとりした演技」に切り替わった時期があったのを物凄くよく覚えている。

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はやみんとあおちゃんが「変化が気になる声優」という点では最も気になっているが、私的には次点で瀬戸麻沙美さんを上げたい。デフォルトで「憂い」のある声をしている人が今後の人生経験の中でどのように演技を変えていくのか、明るくなるのか…それとも独特の憂いがもっと深まっていくのか。「ちはやふる」の時点ではあまり感じなかったが、「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」の演技を聞いて大きく「憂い」が深まっていることに物凄く驚いた覚えがある。

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・実は「役者の変化」という観点で、一番最初にそのことを最も顕著に感じたのは女性声優ですらなく、男性声優の神谷浩史さんだったりする。阿良々木君を演じながらの変化、特に折原臨也を演じた前後で何かかなり違う。

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・「プロフェッショナル~仕事の流儀~」も観たけど、今や男性声優業界のトップランナーとなりつつある神谷浩史さん。私がこの人物凄い好きなのは「変化すること」を自分の仕事としてちゃんと意識しているところにある。神谷さんの演技は実はよく聞くとあまり安定しない、というか多分、敢えて変えている。昔は分かりやすく声質に合っている少年・理知的キャラばっかりやっていたが、2010年前後以降どんどん「変える」という事を仕事の現場で実地で実践している。
・異論反論かなり出て来るであろう部分だけど、演技者・演劇者って、その人生経験によって人格として大幅に変わっていく姿を演技の中で見せてくれる人が一番良いと思っている。若い内はフレッシュで何にでも取り組む熱心さと純心さがあって、そこから徐々に熟練していって色々な役柄の幅を広げて行って酷い悪役とか重要な名脇役を演じられるようになり、最後には老成して年老いたキャラクターとして主人公たちに教えを与える…そういう変化があるのが演技者の真であると私は思うし、それを見せてもらう事にこそ演技・演劇の真の価値があると私は勝手に思っている。
私は自分が応援している声優・役者さんに関しては結婚でも離婚でも恋愛でも何でもドンとこい、大歓迎である。それで「変化したところ」を沢山見せてほしいし、それを見せられる役者こそ本物であろうと思っている。
(※この記事を書いてる最中に竹達ちゃんと梶くんが結婚したのでビビりました。おめでとう!早く新しい君たちの演技をみんなに聞かせてくれ!)


文理の働き方・評価格差
・技術系の職業について少し考える事だが、技術系は日常生活の中で一体どこまで仕事をやったらいいだろうか?
・例えば東大でお世話になった先生は「24時間365日実験のことを考えていられるぐらいになってやっと一人前」と言っていた。そんな馬鹿な…と思っていたら、私の親父も「夢の中で図面引くようになったら一流だよ」と言う。つまり「寝てる時間ですら仕事のことを思い浮かべている」という事である。ブラックとかいう次元をはるかに超えるが、技術系はそうでなくてはならないのだろうか?
単純に言って不公平だと思うのだ。文系営業とかは定時でホイホイ帰っちゃうのに、理系技術者は「技術者だから」という理由で07~28時まで21時間労働し続けるような不公平があっていいだろうか(実例です)。いいわけないだろ、その人は仕事の忙しさで毎日死ぬほど苦しんでいたぞ。
しかもそれで理系技術者と文系営業の給料が殆ど同じだったりするというのは、もはや火を見るより明らかに「理系冷遇・技術者冷遇」であると私は思う。それならば文系営業だって定時後に「毎日コミュニケーションセミナーに参加して営業力を高める!」とか「毎日得意先の人と翌朝まで飲み明かす!」とかやらないといけないはずなのに、どうして彼らは同じ給料でさっさと帰っちゃうのかが物凄く納得がいかない
働き方改革だ!と言って確かに早く帰れるようになっている。けれども技術者は家に技術資料持ち帰って目を通すような時間もあるし、研究職だったらそれこそ24時間論文を読み漁り続けているようなことも多いだろう。文系の人たちが「プライベートな時間は趣味に夢中!」とか言ってる最中に、理系は何故日夜残業代も出ない持ち帰り残業で日本の産業を奴隷のように支えなくてはならないのか。それを不公平と言わずして何といえばいいのか。
結局のところ日本の技術力がどんどん崩壊して今や論文数・特許数でこれまで下に見ていたはずの色んな国に追い抜かされるがままになっているのは、文系と同じ評価軸でしか理系を評価できなかったことが最大の敗因ではないかと思っている。文系出身者がお客さんと話をして書類を作っている間に、理系は実験をしたりモノを作ったりしている。文系なら書類の枚数もお客さんとの契約内容も全部数値化できるが、理系の成果は簡単には出てこない上に数値化することも難しい。しかし今その瞬間に販売している何らかのモノを一番最初に作ったのは誰か?文系が書類を組み合わせて電子機器や化学物質を作ったのではないはずだが、それを理解できているのか?
・例えば、最初から商社のような組織であれば文系がデカい顔するのは当たり前だと思うし、それ自体を否定する気はない。世の中には交易・貿易のように商売をする人や、社会のお金の流れを交通整理する投資家・銀行家のような人が居なければならない事は明らかで、それ自体は全く正しいと思っている。が、例えば製造業のような業種で文系が全てを支配しているというのは…私はかなり理解できない。そんな環境で技術が育つとは到底思えない。
・私は文系出身の理系東大院卒というちょっと変わった立場だから考える事だけど、文系と理系で評価に差が出て、働き方にすら差が出るような会社は基本的に絶対に上手く行かないと考える。人事は先ず何とかして「理系を評価するための価値基準」を社内に設けなければならないし、それが文系と比べて不当に低くなるようなことがあってはならない。


言いなり営業の絶望
顧客の言いなりになる以外に殆ど選択肢がない営業って、いったい何のために存在しているのかという疑問。
・未だにちょいちょい目にする機会がある、顧客と上司の完全言いなりで連絡係以上の役割を果たしていない営業の存在がある。
本当にそういう人たちって必要なんだろうか?技術的な要求を聞く分には技術者が聞くほうがその場で議論できるから手っ取り早いと思うのだが…確かにその意味では、日本企業では誰もが「手っ取り早さ」よりも「礼儀作法」を要求しすぎているのできないかというきらいは物凄くあると思う。礼儀作法的観点から言えば、毎日技術に向き合ってる人たちと毎日お客さんに向き合ってる人たちで差が出るのは至極当然のことであると言える。
・でも、実際のところそういった礼儀作法を重視している暇が有るんだろうか。これからどんどん人手不足が進行していく中で従来の事業規模をそのまま維持しようとするなら、一人当たりが担当する業務はどんどん際限なく増えていくことになる。そんな切羽詰まった状況の中で完璧な礼儀作法を学ぶような時間を使うぐらいなら、本来の仕事内容に時間を費やしたいと考える人は増えていくのではないかと思う。
・とすると礼儀作法を身に付けたプロ連絡係みたいな仕事はだんだん消滅していくのではないかと思う。営業として仕事をしている人は、恐らく今後もっと大量に色々な事を勉強してスキルアップしていかなければ人手不足時代の中で叩き潰されて終わってゆく。単に「売るだけ」では食いっばぐれるであろうと予測する。
会社・事業の都合上完全に言いなりになるしかないという場合、その場所に営業職としていつまで留まっていることに何の意味があるのかは考えないといけないと思う。時代が変化したのに自分は変化できずに、ただプロ連絡係としての役目しか果たせないとすれば、どこかの段階で首を切られると考えるべきだ。「終身雇用なんか維持しまっしぇーん」とはいまや経団連会長も言ってることであるから、他人事と思わないほうが良いと思う。転職したっていい時代なんだから、それこそ技術的バックグラウンドを持たない営業職の人は社会の言いなりになってるだけではなくどんどん自分から動いて良い職場を探してみる努力も必要ではないか。

 

事業の純粋性と専門人材の質
企業の事業における純粋性と、専門人材の質の高さは日本では実はかなり比例するんじゃないかという事を郵便受けを覗いていたらふと考えた。
・例えばある瞬間に「化学会社」と「樹脂会社」と「繊維会社」が存在していたとする。化学会社の化学事業で求められる技能は主としては化学である。勿論大学の研究室でやってる内容と比べれば事務仕事が入ってきたりとか客先対応が入ってきたりとか色々な事があるわけだが、主としては化学以外の何物でもない。一方例えば樹脂会社の樹脂事業で求められる技能は化学だけではなく、材料学や機械工学のような隣接分野に対する知識が必要になってくる。また例えば繊維会社の繊維事業で求められる技能となると、材料学が主たる知識で化学はサブ知識分野、下手すると服飾工学のような特殊な分野の知識まで必要になってくる場合があるし、会社によってはバイオ系の製品を持っていたりすると生体工学が必要になったりする。
・飽くまでこの文章における便宜的な括りでしかないが、ここではとりあえず「化学会社」が最も事業としての純粋性が高く化学を主とするもの、「樹脂会社」は二番手で化学と材料学・機械工学を必要とするもの、「繊維会社」は最も事業の純粋性が低く色んな技能が必要になるものとして考えている。実際には会社ごとにやってる事業が違うので会社ごとの分析は必須になるけど、無理やりこじつけて一般化しようとするとこういう感じ。
・で、この事業の純粋性が高ければ高いほど、その分野のトップ人材を採用できる可能性は高くなるんじゃないかということ。少し考えれば普通に当たり前の話ではあるけど、広い知識が必要とされる組織において専門バカだと生きて行けないし、また一方では何か一分野に深い知識の要求される組織で広範囲に知識が広がりまくる人間だと生きていけない
・となると例えばある一つの分野を極めているトップ人材から順番に、事業の純粋性が高い企業に入ってゆく事になる。例えば化学系ならば、一つの化合物の合成方法が何パターンでも思い浮かぶようなスーパー合成化学者から順番にトップ化学企業に入ってゆくことになる。

f:id:weaverbird:20190623192157p:plain・で、この図を描いて何となく理解したこととして、もしもこのまま人手不足が進行していくと仮定すると、分野そのものが縮小してゆくことになるので、高度専門人材を採れる企業はドンドン少なくなってゆくという問題が発生する。専門トップ企業ですら高度専門人材のオールスターチームで新卒採用を埋め尽くすという事はできなくなってゆき、大学内で「次点」と評されていたような学生をかなり大量に採用する必要が出てくる。こうなってくるともはや採用難はエクストリームで、事業的に隣接分野に位置している企業がその分野でマトモな人材を取ることは際限なく困難になってゆき、複数の専門性同士のシナジーで回ってゆくような事業は壊滅的に成立しにくくなっていってしまう。

f:id:weaverbird:20190623192404p:plain・こうなった時企業側は何をすればいいのか、あるいは教育機関の側は何をすればいいのかが物凄く問題になる。
・分かりやすい一つの答えとしては企業の側がどんどん新しい事業に乗り込んでいく、という戦略だ。その分野トップのスーパー専門家みたいな人たちが少なくなるという事は、それだけ全く別のことを手掛けるチャンスが出て来るという事である。ただしこれをやればやるほど事業としての専門性はどんどん失われていくため、技術やリソースを一つの分野に集中させるという事が殆どできなくなってゆく。
・その他例えば大学の側が「何でもやれる人材」をもっと育成するという方法も無くはない…その流れでリベラルアーツ学部みたいなのが山ほどできたのだと私は考えているが、専門性を重視する日本社会においてそういう教育が本当に成立するのか非常に怪しいと思う。
・結局のところ企業が超高度な専門人材ばかりを追い求めて自社の事業の掘り下げ続ける限り、「文理の両面に広く知識を持つ人」みたいなのが活躍するチャンスはあまり日本には無いようにも感じられる。

 

コミュニケーション・ゲーム
・そういう態度が正しいのかどうかはさておき、現在の私は転職活動でどこかの会社に決まるかどうかをあまり重視していない。
・転職活動というものをある種のコミュニケーション・ゲームであると捉えるようにしている、というか捉えるようになってきた。ここにおいてはむしろ企業に受かって安定を手に入れるという事よりも、面接官と対話する中で「対話の技術」を徹底的に洗練して磨き上げてゆく事に意味があると考える。
・面接に落ちると悔しい・落ち込む・凹む、それは間違いないのだが、その翌日ぐらいから頭がぐるぐると加速度的に回っていく中で「今回の面接は何がダメだったのか」を深く考え始めていることに気が付いた。
話の組み立て方・態度の作り方・言葉遣い、なまじ記憶力が良い上に音で聞いたこと全部覚え込んでしまう癖のお陰で、面接官が何を言ったのかも自分が何をどんな態度で語ったのかも全部生々しく記憶してしまう。それが原因で結構派手に落ち込んでしまうが、落ち込む代償として、病的な事には頭の中で面接のリプレイ再生をかなり正確に繰り返せる。
典型的な鬱病になる特技というかもはや特殊技能みたいなレベルだが、それはそれとして、これをプラスの方向に生かして行く事に多分非常に意味がある。面接官の全質問に対して自分が何を考えてどう答えて、それに対して面接官がどういう反応を返したのか全部記憶しているというのはコミュニケーションの洗練に生かせばこれ以上最強な特技は無い。多分今ここで面接で苦しんでいる記憶そのもの全てが今後の人生におけるコミュニケーションスキル全体の洗練にメチャメチャ役に立つ。


二元論と判断
・世の中何でもかんでも二元論的に判断するのは良いとして、何故みんな二元論の片側だけしか見ないのかという疑問。
善悪二元論、ロング・ショート二元論、ミクロ・マクロ二元論、世の中には本当に色々な二元論が存在していると思うけれど、何故か二元論を主張する人って大半の場合において「二元論の片方」しか見てない。○○は善だと一旦信じたら、それを悪だと非難する人の声は一切聞かないし、逆もまた然り。
大半の場合において世の中に「絶対善」は存在しないし、「絶対悪」も存在しない。従って大半の物事は善の側面と悪の側面を併せ持っており、どちらか片方だけで成立するものは物凄く少ない上に、状況次第で時々刻々と善の側面も悪の側面も移り変わってゆく。
・だから人間がそこに対応し続けるためには、その対象が自分にとって善なのか悪なのか時々刻々考え続けていなければならない。勿論全ての物事に常時そんな思考力を発揮していたら発狂してしまうので、自分が気になっているものや取り組んでいるものぐらいにしかそういった善悪の判断は本来付けられない。つまり、大半の人間にとっては大半の分野が「善悪の評価を付けられないもの」になる
実際それでいい。この世の全ての分野、全ての物事に白黒判断を付けられると思ってるのは身の程知らずにも程があるし、だから判断を付けられなくても構わない。
「判断を付けない」という態度も一つの知性であろうと私は考えるけど、どうも世の中ではそういう態度をとることを認められていないらしい。日本人が元々文化として持っていたはずの「あいまい」という態度は忘れ去られてしまったのだろうか。状況によっては別に間違ったものでもないと思うんだけど。
・というか現代に発生する問題は複雑で、大半の物事って一つの側面だけ見ていても殆ど問題の全容は見えてこないし、解決策もゴリ押し策みたいなのしか出てこない場合が多い。物事を複数の側面から眺めるために、一旦判断を保留するという事は全然許されていい事だと思うんだけどな。

 

投資と金の意味・労働の意味
・投資家ってお金のために投資するのか。そうじゃなくないか。お金が惜しいならそもそも投資なんて事はやらないのではないかと思うのだ。だって資金を投げると書いて投資だ。返ってくるとは限らないし、半ば以上博打であることに変わりはない。
・ではその博打に何故打って出ようとするかというと、意味がある博打だからである。投資された金は蒸発して消えるのではなく、誰かの給料になったり設備投資に回されたりするのだ。それってめちゃくちゃ意味がある事で、例え投資したものがリターンとして返ってこなくて全損したとしても、それはそれで社会的に意味がある。つまり金で社会的意味を買うのが投資という行為だと思っている。
・なんか結局、失業して倹約生活を送る今になってもまだ「お金のために働こう」と思えない。
金のために働いたところでクソほどつまらない。だって、お金を頂いて、それで明日の昼飯が少しばかり豪勢になったからといって何の意味があるのか?私の内臓脂肪が増えるだけで、本質的に何の意味も無い。というか健康に悪い時点でマイナス効果の方が強いじゃんか。

お金なんて持ってるものではないと私は思う。誰かを幸せにするためにパーッと使いきるぐらいが最も安定すると思っている。物凄い金額を一生懸命貯金しまくって頑張る事に何の意味があるのかは、正直分からない。


無意識の地獄
・色んな事を気に病んでいるので、少し昼寝でもしたらどうかと夕方から眠った。
・熟睡できてればよかったのだが、残念ながらかなり半覚醒状態でずっと眠り続けていた。夢の中で考えていたことをかなり正確に覚えているぐらいには半覚醒状態だった。
人間は夢の中で膨大な量の記憶を整理しているという。それを垣間見せられて私はとてもぐっすり穏やかに眠っているどころの騒ぎではなかった。夢の中で私は延々ずっと「会社の人たちに迷惑を掛けたor掛けているんじゃないか」という感情の流れを無限に整理し続けていた。
そんなもの整理したところで埒が明くわけがない。砂漠の砂をシャベル一本で一生懸命掘り進んでいくような作業だ理性ではそれを理解していても、私の無意識の中ではそんな理性などどうでもよくて、未だ負の感情が全てを支配しているようだった。まさに地獄だった。
・事細かに覚えている事は流石にできなかったが、夢の中で白くて広い部屋の中に立つ私はずっと独演会のように独り言を大声で語り続けていた。誰もいない部屋の中で一人で独白するという形式をとること自体私がどれだけ派手に孤独になっているかを綺麗に表すものかなと思うが、私は白い壁に向かって「私が辞めた事がどう影響するか、誰に迷惑をかけるか、そうして自分は何をすればいいのか」を無限に語り続けていた。
・会社組織に対して私が迷惑をかけた事は沢山あるけれども、また同時に会社組織から色々な不合理を与えられたことも事実。その部分は対等で良いと思うんだが、どうも私の無意識はそういった対等を理解できておらず、むしろ偽悪的にふるまう事で自分の罪が少しでも経験されると信じているかのようなきらいがある。自分がどれほど浅ましく小さい人間性の持ち主であるか嫌が応にも痛感させられる。

 


創造性とルール
・何つーか結局、「どのルールに従うか」の問題なんだと思う。
・会社が好きな人は会社のルールに従えばいいし、起業が好きな人は弱肉強食のビジネスのルールに従えばいい。こうして文章を書いていることすら「言葉」とか「文法」というルールなしには成り立たない事で、例えば今私が、
ぬぬへへせれまみ、のけけむととせのまみくみく、たぜりののまもちまみま、せれりののまもててちめ、あえうやおよにまもみことちふ!
と意味不明なひらがなを羅列しただけでは誰にも何も届かない。もしかしたら上のひらがなの羅列は高度に暗号化された深淵なる宇宙的哲学なのかもしれないが、そんなことは「ルールに則っていない」が故に誰にも伝わらないのだ。
生きるためには、息をしなければならない。生きるためには、ご飯を食べて眠らなければならない。これだってある種のルールで、従いたくないなら従わなければいいのだ。生きたくないなら生きるためのルールに従わなければいい。
どこまでその「ルール」が進展してくるのかが問題だと思っている。例えば、フリーランスで生きている人が沢山存在する現代社会では「生きるためには会社員でなくてはならない」なんてルールはとっくに崩壊しているし、とすると「会社員は例えどれだけブラックでも仕事を遂行しなければならない」というルールも既に無い。けれども大半の人にとっては未だにこの二つのルールは金科玉条であるし、このルールに背いてまともな社会生活を送ることなど考えられないだろう。ルールが進展しまくって全てを覆いつくした結果、創造性が失われるばかりか個々人の自由意志すらも制限され続けているのだ。
・どう生きるかと問われて、現代日本でも未だにこれは難しい事だけども、私は少なくとも「自分が何のルールに従うか」を自分で決定して生きていきたい。その中で就職するならそれはそれでいいし、起業するならそれもいいし、延々何かを言葉にして書き続けているだけだというのならそれもそれでいい。
私が今考えているのは、「人の創造性を貶めるルールにはもう金輪際一生従いたくない」という事である。一生懸命に働いて一生懸命に自分の創造性を発揮して、その結果「余計な事をするな」と怒鳴られるような、そんなルールには意地でも従いたくないのだ。


「熱」の抽象感覚
何とも言えない熱のような感覚が自分の中にたまっているのを感じる。多分これは自分にとって、変化を推進する良いものであると同時に、私自身をぶっ壊してゆく圧力でもある。
・ふっとした瞬間に圧力が訪れ、ふっとした瞬間に消えてしまう。まるで幽霊のように神出鬼没なそれをうまく言葉の形にして捉え込むことができればいいんだけど、中々それができない。
・そういう意味では私は昔から物凄い量の独り言を喋る癖がある。まさに自分の中に発生する感覚を全部言葉にして捉え込むためにやっていることで、それをそのまま頭の中の曖昧模糊とした意識や感覚として終わらせてしまえる人が私には物凄くうらやましかった。私が同じことをやろうとすると頭が破損しそうなぐらい頭の中に大量のゴミがたまる。
・何というかこういう話をしている時点で東大生の仲間には入れないなあと物凄く思う。私は論理で生きてないし、人から言われたことを忠実に再現するような再現性の下に生きてるわけでもない。私はただ純粋に、自分の中の熱に従って行動しているにすぎないし、私の言葉は物凄く感覚的で抽象的だ。一般的な東大生が最も嫌う類の言葉である。


創造性の視差と退廃の箱の中
・何かやっぱりアレだな、創造性とは制限性の中から生まれてくるものなのかもしれないと、そんなことを思う。
・会社に行って帰ってきて…という日々の中には、割とやりたい事が山のようにあった。やりたい事があまりにも多すぎて取り組み切れなかった。今現在、会社という縛りがなくなって四日目、その時代に取り組みたかったことに幾らでも取り組もうとしているが、明白に「創造性」が低下していると感じる。
・端的に言って「実家に帰っている状態」と物凄く近い感じがする。行かなきゃならない場所は無いし、物凄い勢いで怒鳴り散らしてくる人は存在しないし、無限にこんな仕事するのだろうか…と憂鬱になるような作業も存在しない。つまりストレスが無い。すると不思議な事に、制限がなくなって「見える世界」は大きく広がるけれど、「手を伸ばせる世界」は小さくなったような気がする。
・多分それは「視差」なのだ。手を伸ばせばそこに何もかもがある、それ自体は実際何も変わることはない。ただし、見える世界が急激に大きくなってしまうと、相対的に自分の姿が物凄く小さくなったように感じられる。自分が広大で荒涼たる世界にただ一人ぽつんと立っているかのような、何とも言えない寂しさを感じているのだと思う。
・箱の中で生活していれば、その箱の中が世界のすべてだと思うだろう。元は世界の広さを知っていたはずの人間でも、箱の中に入れられて何年も働いていればいつしか箱の外には何もないと信じるようになる。では、そういう人間をある日突然箱の外の世界に出したら何が起きるか?割と世界を知っているつもりでいた私ですら、物凄く戸惑う事が沢山ある。広い世界には社内規則も暗黙の了解も存在しない。自分の創造性を自在に発揮していいこの空間は、裏返せば何の道標もない迷いの世界である。
・その中で私は何をすればいいのか。転職活動して、文章をあいも変わらず書き続けて、何かを勉強して、それで何になるというのか。多分何にもならない。それでもなお私が文章を書き続けようとするのは何故か。それでもなお私が生きようとするのは何故か。