驟雨の標

東大院卒ド畜生が綴る、困った人の長話(記述言語版)

「間違った事を発言すること」と社会キャパシティ:3

ただでさえ退屈な仕事が、経営状況の行き詰まりによって急激にブラック化する。アベノミクスの終焉と共にそんな話は幾らでも出てくるでしょう。私の会社はその先駆けとなりそうです。朝から晩まで訳の分からない仕事に取組みパワハラも過激化、私も精神科医から自宅療養を命じられる日が近いかな。再び精神力をすっかり消耗し始め、文章を書く能力も低下しつつあります。
 
コミュニケーション論第三弾、今回以降やっと本題に入って「間違った意見に対してどう反応するか」という事についてです。Twitter上で私が自分で体験したり、落合陽一先生を猛然非難しまくる論者を観察して考える事になります。
 

 

何か大分前になってしまいましたが、人は誰しも何でも知っているわけでもなく、知的に非対称・時間的に非同期・興味関心的に不均一なコミュニケーションこそが本質であるという話をしました。その上で人がそれでも発言するのは何故なのか。
色々な意見があるとは思いますが、私の考える最大の意味とは「他者に影響を与える事」です。まずはこの点から解説していきたいと思います。
 
コミュニケーションと影響力
人と人とが意思疎通し、意見を交換する事の意味とは何か?
例えば「生まれてこの方誰とも一切言葉を交わした事の無い人間」を考えると良いんじゃないかと思います。調べていたら色々と例が出てくるものですが、真偽の怪しいものまで含めてすべてに共通している事として「発見されるまで周知されていない」という事があります。
…また何を当然の事を言ってるんだコイツはという声が聞こえてきそうですが、これはある意味とても重要な事です。コミュニケーションした事が無い者は、他人に対して影響力を発揮する事が一切ないのです。存在を感知される事も無く、何一つとして誰にも影響を与える事がない…そんな透明人間のような存在が、即ち「生まれてこの方誰とも一切言葉を交わした事の無い人間」であると言えます。

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どう考えるかはその人次第な部分がありますが、私は「情報的な影響力を与える」という事をコミュニケーションの基本的な意味の一つであると考えています。私が何かをしゃべるとその場には情報的な意味を持った音が発せられます。それをその場にいる人がある程度聞いて意味を解釈すれば、その瞬間に私はその人との間で「情報を交換した」という事になります。

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一見してメチャメチャ当たり前の話ですが、この事が極めて重要であると考えます。例えば情報を交換するという事は、その瞬間に私が考えていた事・意識していた事の一部を誰かに受け渡すという事になります。その代わりに私が何かしらの言葉を相手から受け取れば、その際には同様に相手の考えていた事・意識していた事の一部を私は受け取ることになります。

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こうして「一部を交換する」という事が非常に重要な事であると私は考えています。私は常に私と言葉を交わしたことのある「誰かの一部」から構成され、また他の人たちも私と言葉を交わしたことがあるならば同様に「私の一部」を自分の中に取り込んでいる事になります。
 
間違った意見の発生と理解
ここにおいては、「相手が間違った事を言っているかもしれない」と疑う事とは、「相手の言葉を直ぐには受け入れず精査する」という選択をする事になります。例えば空港では海外からの渡航者に対してパスポートや身分証明書を確認したりして入国審査をするでしょう、ある意味それに近い事を情報というものを交換する上でやるという事になります。

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言葉を受け入れる前にその言葉を精査し、正しいのかどうかを客観的事実や主観的価値観によって判断するプロセスは本来であれば誰しもがやるべき事ですが、しかしながら前回述べた通りコミュニケーションとは常に不均一で非対称である事から、毎回必ず相手の発した言葉が正しいのかどうかについて客観的知識を持ち合わせている事はあり得ません。
例えば私は化学・細胞工学・材料学・樹脂について知識を持っていますが、物理学についての知識はあまり持っていません。従っていきなりフーリエ変換の話を振られても、それが正しいのかどうか判断する事は私には殆どできません。なのでそういった場合にはスピードを犠牲にしてでも他の専門家がどう言うかを参考にすることにしています。

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しかし、これは通常であればかなり困難な事です。速やかに何かを判断しなければならない時に専門家の意見を聞いて…なんて悠長な事はやってられないので、最終的には自分の教養で判断するしかない。
ここにおいてコミュニケーションと教養力は深く関わってきます。教養がある程度備わっていれば知らない事でも類似の知識・現象から類推して推論的に物事を考える事ができますが、教養が無ければそんな事は一切できないので全ての言葉を拒絶して受け入れないか、または全ての言葉を丸呑みにするかの二者択一になります。いわば教養とはコミュニケーションに於ける通関の機能を果たすわけです。

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交換記憶などという言葉がもてはやされて「現代はインターネットで何でも調べられるから何でも自分で判断できる」なんて思われている風潮がありますが、多くの場合「調べる」という事まではインターネットでできるとしても、それを「理解する」という事には大変な困難が伴います。また手元のスマホで即座に何かを調べられるとしても、相手の言葉を一々調べながらでは会話はマトモに進みません。「フーリエ変換」と検索すればWikipediaのページが出てきますが、それを物理学や数学に対する経験が低い人が読んで即座に理解できますか?…少なくとも私には無理です。
何でも調べればいいから勉強は不要…という姿勢で生きていると「調べる」ことはできても「理解する」ことができていない状態で訳の分からない情報を大量に受け入れる事が常態化し、するとやがて間違った意見が口から大量に出てくるヤバい人になります。

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ある意味、交換可能な知識を以て対話する事が当然のこととなっている情報化社会においては、突然全く間違った意見を堂々言い出す可能性は私を含め常に誰にでも存在します。勿論回答の精度が高いか低いかが教養の差で左右されるとはいえ、特にスピードが求められていてネットで調べた程度の知識で回答するしかない場合、相手の答えにせよ自分の答えにせよその信憑性・正確性は著しく低下すると考えるべきです。
元よりネットが発達して人々が「学ぶ」ことを止めて「調べる」ことにばかり専心してゆけば、社会が間違った意見で溢れ返って行くのは当然すぎるぐらい当然の事だと私は考えます。
 
スリードと努力する事の罠
じゃあ、調べて勉強すれば良いんだろ?じっくり時間かけてばっちり勉強したるわ!
という人は向上心が有って良いと思いますが、それすらも私としては絶対ではないと考えています。昨今は"post truth"なんて言葉が登場してきた事からも分かる通り、人々は「真実」を欲していません。
それよりも「安心できる意見(=自分の認識を外れない意見)」を欲しています。という事は、「多くの人に意見を聞いてもらう」という事を目指しているメディアは必然的に「真実」ではなく「安心できる意見(=多くの人が求めている意見)」ばかりを大々的に報道してゆく事になります。

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全ての意見が間違っていると言うつもりはありませんが、そういった正しいかどうかは度外視して「安心できる意見」にメディアの報道が偏っていけば、情報が捏造されたりする事も出てきます。朝日新聞なんかは昔から捏造の宝庫ですし、昨今はそういった問題がフェイクニュース問題として世界的に大問題になっていますよね。ドナルド・トランプが大統領になったのはロシア発のフェイクニュースによるものかもしれない、とか言われたらもはや無視できません。人々が欲しがっている「安心できる意見」は、時として世界情勢すらも動かしてしまう程の重大な捏造に繋がる可能性があるのです。

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そういった捏造交じりの情報が溢れ返っている世界では、例えば自分一人の力で何かを勉強する事には大きなリスクが伴います。地球温暖化について勉強しようと思って書店に出向けば、地球科学的に地球温暖化について引用付きで正確に論じてくれる真っ当な科学本もありますが、一方で地球温暖化なんて存在しない!もっと石油も石炭も燃やしまくってフロンも使いまくって良いのに、国際大資本の陰謀によって地球温暖化が演出されてるだけだ!」みたいな事を堂々書いている陰謀本も山ほど売られています。言論の自由が保障されている以上あらゆる物事に対して陰謀論を言う事はできるので、ポストが赤いのは日本政府による陰謀だ!と言っても別に罪にはならないのですが…しかしそういった陰謀論みたいな情報を基に勉強してしまうともはや目も当てられない事態に陥ります。

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一番わかりやすいのが水素水じゃないかなと思います。この世には健康を増進し万病に効き、飲んだらたちまち体の調子が良くなる水なんて都合のいいものは存在しませんが、皆そういう都合のいいものが「存在してほしい」と思っているのです。だから水素水ビジネスはあれだけ大規模に流行ったし、未だに水素水教徒みたいな人たちが狂信的に水素水を布教しようとしています。誤った「安心できる意見」にミスリードされてしまったら、もはやそこにはどれだけ勉強したとしても正常な判断能力は宿らなくなってしまうのです。

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かくいう私だって「教養・知識」というものをひたすら信じ倒して勉強し続けているので、ある意味では知識主義の信徒であると言えます。という事は必然的に私自身も間違った情報にミスリードされたまま勉強している物事をたくさん持っている事になります。それがどれなのかは自分では分かりませんから、間違った発言をして他者からそれを指摘されて初めて私は自分のミスに気が付くことになります。私自身も常に間違った意見の温床になる可能性を秘めているのであり、ある意味では知識欲をもって勉強し続けているような人であればあるほど間違った意見を発信してしまう可能性は高いのです。
 
こうなってくるともう厳しいですよね。私を含め万人が間違った事をそうとは知らずに言ってしまう可能性があるとすれば、本質的には情報の捏造やフェイクニュースを防止するためには誰も一言も意見発信なんてしない方が良いのかもしれません。しかしそうではなく、ある程度「間違った意見を許容する事で社会は回っている」という事を次に考えてみたいと思います。
次回はいよいよやっと「社会キャパシティ」と私が呼ぶ何だかよく分からない概念についてです。
 
※追記:
「ディープフェイク」と言うそうです。世の中こんなものまで出回るようになりました。人が喋ってる動画を顔だけ入れ替えて、別人が喋ってるように見せかけるという、AIを用いた最先端の映像合成技術です。
人が喋っている実写動画すらフェイクであるという事は、もはやフェイクではない正しい情報だけを取り入れる事は至難でしょう。人々は自動的に「間違った事を言うように」誘導されているともいえるわけですね。