驟雨の標

困った人の長話(記述言語版)/晴れて今や東大院卒三交替会社員の名をほしいままに

意識は低く広く、流れるように:第一夜

私が何を考えて物事を見ているのかについて。2018年版です。

…よく「どうしてそんな風に考える」と色んな人に言われます。ある人は驚きと称賛の入り交じった目でそう言いますが、別のある人は侮蔑の目を向けてそう言います。まあ当然っちゃ当然なんですが、私の考え方は普通の人から見ると明らかに異常者のそれに見えるようで、ここは一つまた私の基本思想からちゃんと説明したほうが良いんじゃないかと思います。

定期的に私の基本思想的な記事は書いてるんですが、書いてから数年も経つとまた別の思想に大化けするので、今回はまた2018年版として書いておこうと思います。
書いていたら猛然長くなったので複数パートに分割します。かなり色々なことを考えて書いていますが、その一方で一見矛盾する内容をかなり多く含んでいるので、分かりにくくなってしまった部分も多いです。

第一には「意識を低く持つことの大切さ」です。

 

意識は「低く」、じっくりと取り組むこと
私は世に数ある「意識高い系」とは真っ向から対立して生きていたいと思っています。
これは元々文系として生きていたのに高校時代に半引きこもり状態になり理系へ転向し、そこから多くの人々と笑ったり戦ったりしながら東大大学院まで行き、人類世界を引っ張っていくような天才たちや日本最高の頭脳たちを間近で見て、ほんの一瞬だけども彼らと肩を並べて風を切って歩き、そうして人生の扉をあと一歩で開けそうだった矢先に全てを喪失して、今は地方の小さな会社のブラック工場で夜勤をやるまでに転落した人間であるからこそ考える事があるからです。

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人間の世界とは「夢」で食って行けるほど甘いものではないし、「信念」でどうにかできる程軽いものではない。成功者たちはどうして成功したのかと言えば、尋常ではない程の努力を積み重ねたからです。しかして例えばそれを「努力」だと思ってるならばその人にはその分野に対する才能なんかこれっぼっちもないし、如何に頑張ったところで適当な会社のサラリーマンで終了するだけです。ここに努力一辺倒の考え方の限界があると私は考えています。

従って、努力する事で何かしらのスペシャリティ」を得てスペシャリスト」になろう!なんてのもその分野に対して常軌を逸したような興味をもって没頭できる人だけに通用する事で、普通の人にはそんな事はできません。
「あなたもプログラミングを学んでコンピューターのスペシャリストになりましょう!」みたいな事を言われて、「これからの時代はプログラムぐらい書けなアカンなあ」とか言ってイヤイヤコンピューターに触る人がいる一方で、シリコンバレーとか深圳とかに行けば朝から晩までプログラミングしてないと禁断症状が出て身体が震え出すぐらいのプログラミング中毒者がいるわけです。ここにおいて本当に「スペシャリスト」になれるのはそういったガチンコのプログラミング中毒者だけであり、渋々プログラミングの教科書を捲っているだけのオッサンはどれだけやったところで「スペシャリスト」などにはなれません。要は「好きこそものの上手なれ」を実現できる人だけがスペシャリストになれるのであって、それ以外の有象無象なんてのはどれだけ努力したところで有象無象のままです。

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そもそも死ぬほど頑張って努力したとしても、身体が付いてこなくて身体を壊してしまった事でチャンスを逃して転落するとか(私です)、働いていても自分とは根本的に考え方の違う上司先輩にぶっ潰されるとか(私です)、とにかく問題は山積みです。凄い勢いで何かに没頭して努力したからと言って、それが実際に芽が出て飯の種になるかというと、それは分からないのです。

f:id:weaverbird:20181002201605p:plain人間だもの。頑張っても、大転落する事だってあります。 


私の視点から見ると、何か一つの事に向き合ってそれだけに集中して努力している人ほど叩き潰されると破綻しやすいと観察します。
それはある意味当たり前の事で、例えばホワイトカラーの事務職として書類の書き方が天才的に上手になったとしても会社が潰れたら何の役にも立ちません。ただのゴミクズホワイトカラーの中古のオッサンとなって、オッサンホイホイみたいなブラック企業に投げ込まれて人生終了するだけです。
または技術職や研究職の場合を考えてみたとしても、自分の研究開発している技術や自分が取り組んでいる技術体系が会社の経営陣に不要と判断されれば、真っ先に切り捨てられて「別の部署への転属を受け入れるか辞めるかの二者択一だ」と理不尽極まりない選択を迫られるわけです。日本企業は技術職や研究職を異様なほど軽視する傾向があるという事からも、多くの会社においてそうなってしまうという現実があります。

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ここにおいて根本的な気づきとして「視野の狭い努力は物凄く無駄」という事が考えられると思います。この視点においては「会社のために働く」のではなく「会社で得た知識を使って働く」という方向性に引っ張る、つまり「経験・スキル・知識を汎用化する」という考え方で取り組む事が必要になります。これは一般的に言う所のクソみたいに頭の悪い意識高い系、つまり「会社で無我夢中で働いて、圧倒的に成長しよう!」という考え方とは完全に真逆の立場であると言えます。
経済学の用語を使って言えば企業特殊的技能(その会社の中でしか使えない技能…書類の書き方や上司との話し方など)ではなく、汎用的技能(その社会全体で使用可能なもの…医師免許とか国家資格や知識など)を身に付けるためにこそ時間を割くべきであるという事になります。

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では仕事を適当にやってりゃそれで良いのかというと、そういう事が言いたいわけではありません。仕事経験をある程度汎用性の高い知識へと変換するためには、大法螺を吹いたり達成不可能な目標を掲げて無理やり走ったりするのではなく「地に足を付けてじっくり考えながら取り組む」という事が重要になってきます。
私の言いたい「意識は低く」とは、そういった時間をかけた熟考を重んじる姿勢を指します。最近の企業はどこに行っても「時間当たりの生産性」とか「業務効率向上」とかを叫びますが、それでは人間は絶対に育たない。誰しも最初から効率よく業務を処理できるなんてことは無くて、とにかく最初は腰を据えて熟考に熟考を重ねながら仕事に取り組むぐらいの姿勢を許容してほしい所です。

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…まあ少子高齢化でただでさえ社会全体での生産性が低下している時代にそんな事を叫んでも空虚なだけかもしれませんけどね。

 

 

⇒第二夜は「意識を広く持つことの大切さ」
To be continued...