驟雨の標

困った人の長話(記述言語版)/晴れて今や東大院卒三交替会社員の名をほしいままに

ぜいたくの意味論

私も人間なので、欲望というものがあります。
よりおいしいものが食べたい、より広い家に住みたい、よりたくさん本が読みたい、よりのんびり生きていきたい。…まあつまるところ、より良い生を送りたくて仕方がないわけです。
特に今現在のようにブラック的労働環境(本物のブラックではない)に放り込まれていると、精神的な貧困感がすごいヤバいです。何をしていても満たされないような感覚が常にあって、必死になって何かに取り組もうとしても全然捗らないし何をしているのかもよくわからない。
そういう時にぼんやりとネットを見ていると、色々なものが目に付きます。そこから考える事です。
 

 

意識高い系の空虚な贅沢自慢
金持ちが金持ち自慢を普通にするのは別にかまわないんです。ZOZO社長の前澤なにがしさんが色んな美術品やら高級品やらを自慢しているのは寧ろ正常な行いであるとすら思います。あれを見て「成金が成金趣味を自慢しているのは卑しい」とか言い出す面倒くさい人がいる一方で、「私も前澤社長のようなお金持ちになってやるぜ!」と夢を持つ人がいるんだからそれは極めて生産的なことだと思います。
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(バスキアが妙に似合ってるしな)
私的には前澤社長なんてのは「質実剛健な贅沢自慢」であるというか、普通に自分が苦労して努力した結果得たものを自慢しているにすぎないのだから、スポーツ選手が血の滲むような努力の果てに優勝トロフィーを高らかに掲げて笑顔を浮かべているのと要素的には同一です。努力した事、そしてそれで得たことを無邪気に自慢しているだけなのですから、確かにちょっと鼻につく所はあれど、それが責められる筋合いは本質的には無いものだと思います。
 
一方で私は「意識高い系贅沢自慢」が死ぬほど嫌いです。正直いい加減にしてほしいのは、昨今の意識クソ高いばかりで中身がすっからかんの贅沢自慢です。

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上記のようなものを見ていただけると分かると思います(画像は実物を加工したものを利用)。大体こういうものには大体お決まりの常套句があって、

あなたが仕事をして苦しんでいる間に僕は高級寿司を食べに行ったり、
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高級腕時計を選びに行ったり、
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外国に旅行しに行ってみたり
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という風に「例を挙げての比較」を多用します。あと何故か「高級寿司」がやたらに登場します(高級食ときて寿司しか出てこない時点で文化的に大幅に立ち遅れているのではないか…)。
いやまあいいんですけどね。私も人の子ですから欲望はあって、しかも工場労働者にまで身を落とした私と違って私の知り合いにはリアルにこういう生活をしてるような奴らがいない事も無いわけで、するとやはり私もこういう生活に憧れはします。それはそれでよいのですが、しかしちょっと待ってください。
この煽り文句を書いた人って、私たちが実際に金持ちになる事を想定してないんですよね。
もしもちゃんと金持ちになる事を想定して煽り文句を書くとすれば、以下のような形になるはずです。
あなたが仕事をして苦しんでいる間に僕は「銀座 鮨青木」に高級寿司を食べに行ったり、
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タグ・ホイヤーの専門店にカレラを選びに行ったり、
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カッパドキアに旅行しに行ってみたり
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このように具体的に何を買ったのか・何をしたのかを書けば、私たちが実際にお金持ちになった後にそのお店に行ったり、そのブランド品を買ったり、その場所に旅行に行ったりできますよね。
それを書かないってのはどういう神経してるんでしょう。おまえらは結局大貧民のクズのまま這い上がる事も無いから店の紹介は不要だとでも言いたいのでしょうかね。そういうのって、とても不愉快ですよね。
 お前が食べてるものと同じものを私にも食わせろ!!!!!!!!
私などは猛然そう思うわけです。私の周りで贅沢自慢とかグルメ自慢をする奴は必ず店の名前を出してくれるし「皆も行ってみてね」と好意的に店を紹介するという事ができています。だからそういう配慮が全く無い贅沢自慢を見ると、どうしてできないのかと思うし、その配慮もできないような贅沢自慢にはまるで価値がないと思うわけです。
具体的に最初の贅沢自慢に返すと

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というクソみたいに頭の悪い注釈が付きます。この赤文字こそが中身の無い贅沢自慢に感じる空虚さに他なりません。

 
贅沢とは何か
ここまで考えて、では贅沢をする事の本質的な意味とはいったい何であろうか?という事を考えるに至りました。
私は高級車よりも美術品よりも美味しいものを食べたい人間なので、寿司を例に考えていきましょう。例えばある瞬間に東京や大阪の名店と呼ばれるようなお店で、一流の職人の握ってくれたお寿司を食べる人間がいるとします。と同時に、くら寿司池袋東口店とかで回転寿司をパクパク食べてる人間がいたとします。
この二者の間に「違いを見出す」ためにはどうすれば良いでしょうか?f:id:weaverbird:20180930123456p:plainとか書くと「高級寿司と回転寿司では明らかに違うだろ!そんなこともわからんのか!」とか言い出す人々がいますけど、私の視点としてはこれはよくわかりません。だって、どちらの人も「ある瞬間に寿司(:炊いた米の上に生魚の切り身を乗せて一緒に食べる料理)を食べている」という事実関係的には殆ど変っていなくて、栄養価にそれほど大きな差がある訳でもなければ行動にそれほど大きな差がある訳ではありません。
では、私たちが「高級寿司と回転寿司は違う」と感じるその「違い」とは一体なんでしょうか?
幾つか答えがあると思うし、人によって考え方の違いのある問いであると思いますが、私の考えとしては「そこに相手に対する思いがあるか否か」でおよそ決する問題であると思います。
 
 
工業の一形態としての回転寿司チェーン
例えば、もう回転寿司チェーンのシャリの握りは自動化されて久しい技術の一つです。
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(鈴茂器工の寿司ロボット「SSG-GTA 寿司職人 助人」)
勿論職人さんが握って回転レーンに流しているお店が無いわけではありませんけども、家族連れが一日に何百組も来店するような大規模な回転寿司で全て職人が握っているとすればそれだけで職人が何十人も必要になるでしょう。家族連れのお客さんを待たせてしまえば子供は騒ぎ出すし、皆空腹を抱えたまま時間を過ごすことにもなります。あまり効率のいい話ではない。だから大規模な回転寿司チェーンではシャリの握りは自動化してネタを乗せるだけにするし、やがてはネタを加工しシャリに乗せる所まで含めて完全自動化されるでしょう。
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(鈴茂器工の工場での写真だそうです)
これはある意味では寿司の工業化と言えます。機械は何も考えることなく入力された電力に沿って出力たるシャリを返すだけですし、そこにネタを乗せたり加工する人々も次から次へと舞い込む膨大な量の注文に対応するだけで精一杯であると思います。とすればそれは完全自動化されたラインで大量生産されている工業製品と何ら変わることなく、そこに人の思いなんてもんは介在する事もない「利益を得るための製品」であるという事になります。
私たちが回転寿司チェーンで食べているものは「私たちの内の不特定多数の誰か」が食べる事を想定して作られた食品工業の産物であり、これは例えば精神的な意味ではカロリーメイトを食べてるのと何ら変わりありません。
 
 
コミュニケーションの形態としての食事
こうして回転寿司というものの工業的側面を考えてから、対する高級なお寿司屋さんに行って食べる事を対比すると、割とその違いは明確だと思います。
高級なお寿司屋さんで職人さんが一つ一つ丁寧に握ってくれたものを食べるという事は、そもそもの製造工程からしてこれは「たった一人のお客さん」が食べる事を想定して作られたものです。だからオーダーメイドが効きます。どうしてもわさびが苦手だからさび抜きでお願いしたい、魚の生臭さが苦手だから軽く湯通ししたり軽く炙ったものが食べたい、そういったようなお客さんの要望にそのまま応える事ができるのが高級なお寿司屋さんであり、寿司職人の存在です。
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(「銀座 鮨 青木」の大将 寿司職人の青木利勝さん)
これはつまり「あなたのために作ったものですよ」という意識がそこに宿っているという事になります。少し前に「おもてなし」みたいなのが大ブームになりましたが、まさにこうしてお客さん一人一人のために寿司を握るという行為そのものがおもてなしのホスピタリティ精神の極限に位置するものです。これに対して例えば回転寿司チェーンでレーンに並んでいるお寿司とは「あなたのために作ったもの」ではなく、「不特定多数の誰か」のために作られたものです。
と考えれば、高級なお寿司屋さんにおける食事には「寿司職人とお客さんの関係性」に則って食事をするという意味がある事が分かっていただけるかと思います。寿司職人とはいえ人間ですから、味わって食べてくれるお客さんに対しては力を入れて握りたいと思うでしょうし、スナック菓子を食べるが如く何も言わず無表情でパクパク片付けるだけのお客さんにもっと食べてほしいとは思わないでしょう。
高級なお寿司屋さんにおける食事とは、職人と客の間に成立する一種のコミュニケーションであると言えます。ここに高度な文化的側面が生まれる余地があるのであって、回転寿司チェーンでは絶対に実現しえない価値がある部分であります。
 
 
贅沢の意味と価値
ここから話を戻したら、
「贅沢とは『相手に対する思い』の価値を指す」
という事が分かっていただけると思います。
 
この考え方的には、職人が握ってくれたものが「へい!おまち!」と出てきて、それをゆっくり食べて味わって「おいしいね」とか「イキが良いね」とか言うとか、または何も言わないにしても笑顔ぐらいは浮かべるべきで、そういった関係性が成立する事によって初めてその文化的価値が最大限に引き出されると言うのです。
一方例えばどんなに高級な寿司屋に行ったとしても、お客さんと寿司職人の間に関係性の成立しないような味わい方をしてしまってはそれは「贅沢」としては成立していません。出されたお寿司をやたらスマホで写真ばっかり撮りまくって、寿司が痛むのも構わずいつまでも延々自撮り写真を取る事にばっかり夢中になって、それでいざ寿司を食べるときは醤油をアホみたいにぶっかけてスマホを見つめながらポテチでも食うようにパクつくだけの奴がいたらどうでしょうかね。そんなもんは贅沢とは言いません。ただのバカです。そういう人が高級なお寿司屋さんに行ったところで、そこで発生するのは「意識高い系の中身すっからかんの贅沢のフリ」でしかないのです。
 
「相手に対する思い」を感じ取るという点においては、そんなに高級なお店に行かなくたって良いんです。
例えばこれは私の小さい頃に実際にあった話ですが、父方のお祖母ちゃんの家に家族みんなで遊びに行くとお祖母ちゃんは毎回必ず手作りのお寿司を握ってくれました。シャリはちょっと酢の風味が強くて酸っぱく、握りの形も不揃いで、ネタも厚切りで不格好なお寿司でしたが、私はお祖母ちゃんの握ってくれるお寿司が本当に大好きでした。そこには確かに「おいしいものを孫に食べさせたい」という、明白で確固たる「私に対する思い」がありました。これは私の人生における最高の贅沢の一つであると胸を張って自慢できる事です。
その他にもごく簡単な話として、結婚している人ならば毎日パートナーがその人のために作ってくれるご飯の事を贅沢と言ってもいいと思います。例えコンビニで買ってきた食品工業の産物であるとしても、その人のために買ってきてくれたならばその瞬間にそれは贅沢の一種に数えられるものになると思います。そこに確実に「相手に対する思い」があるからです。
 
 
贅沢と感受性
当たり前のこととして、贅沢の意味と価値を感じ取るためには感受性が必要です。
誰か自分のために作ってくれたもの、自分のためにしてくれたことを感じ取るためには、先ず自分自身と他者との関係性に対して鋭敏にアンテナを張っていなければなりません。目の前にいる奴が何を感じて何を考えていて自分にどのような意識を向けているのかという事を最低限ある程度理解できていなければ、他人の善意を受け流してしまいかねないですし、当然の事だと思ってしまいがちです。
このクソみたいなストレス社会に生きていれば、どうしてもそういった他者から向けられる意識に対しては鈍感にならざるを得ない部分はあります。誰しもが自分に対して好意的な感情や意識を向けてくれるわけではなく、敵対的な意識によって自分に害を加えてやろうとする人も当然存在するからです。
だけれども、少し背伸びして贅沢をしてみようと思うならばせめてその間だけでも、自分にどんな意識が向けられているのかをちゃんと意識して振る舞う事が本当に大切なのです。それによって初めて、贅沢をする事には意味が生まれます。