読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

驟雨の標

困った人の長話(記述言語版)

哲学:意味の生き方と快楽の生き方

夜中考えていて眠れなくなった事第二弾です。

世の中には「一つの事に集中する」という生き方と「色々な事を経験する」という生き方の二者があります。よく若いうちは色々な事を経験して、大人になってからは一つの事に集中しろ、なんて言いますが、一体全体それはどうしてなのか?と考えて次のような試論を考え始めました。

「一つの事に集中する」方が明らかに楽で、人間の快楽に直結しやすいのではないか?

以下それについて。

 

私の周囲には死ぬほど優秀な人がゴロゴロいます。それは東大という環境があれば当たり前の話ではありますが、学識・教養だけでなく、何か根本的に生存能力に関するセンスが極めてハイレベルであるという人が非常に多いのです。
見ていると基礎的にそういった人達は、確実に一つの事に徹底的に集中して取り組んでいます。肉体的・精神的リソースに限りがある事を正確に認識した上で、最もクリティカルに重要な事のみにリソースを振り向け、それ以外の事には殆ど関心がありません。

それとは正反対に私は基本的にあらゆる事に手を出しちょっかいを出し、あらゆる事が色々な速度で同時並列的に進行する事を好みます。一つの事を勉強しているだけでは飽きてしまうし、広い世の中のあらゆる物事についてもっと理解したい事がたくさんあるためです。しかしながら、そういう態度で生活していれば当然のように睡眠時間も体力も何もかもが不足するわけで、それによって長患いで病臥したり色々な事が中途半端な状態で散らかってしまう事も多々あります。

そこで考えます、どうして私は色々な事に手を出して生きていて、他の人達は一つの事に集中しているのか?

 

意味の生き方

根本的な所から問いかけていけば、結局私は人生に意味を欲する所が大です。「人生に意味なんて無いよ」と一言言えばそれで済む話ではありますが、だからと言って意味も無く学校へ行き、意味も無く会社へ通い、意味も無く死ぬなんて事は私にはとても耐えられません。というのは、学校へ行き会社へ行き、そして人生を全うして生きて行く事は私にとって幸福に直結する事ではないからです。「生きているからハッピーだ~♪」なんて某はっぱ隊の歌にはありますが、私には生きている事がそれほどハッピーな事だとは全く思えないのです。

人は戦う生き物だと私は認識しています。社会は思い通りにならないし、人間関係も、業務も、何もかも全て基本的に思い通りにはいきません。だからこそ1%でも思い通りにいかせるべく人はこの社会を理解し、操作し、そして生きていくための努力を怠ってはならないわけで、それは取りも直さず思い通りにいかない社会に対して戦いを挑む事です。
その過程で当然人は疲労を感じます。肉体的に疲れ果てて体力を失ってしまった結果病気に臥せる事はありますし、精神的に疲れを溜め込みすぎて精神に変調を来してしまう事だってあるでしょう。疲労し、ボロボロになる事が最初から決定づけられているのが戦うという事であり、即ち「生きる」という事の本質です。

そうして苦しんでボロボロになって行く事に、どうして人は拘るのでしょうか。さっさと自殺してしまった方が手っ取り早いでしょう。「賢者は戦いよりも死を選ぶ、更なる賢者は生まれぬことを望む」とは某ゲームの有名な名言ですが、実際問題として人の生は本質的に苦痛であり、より苦痛の少ない方を目指すのならば元より生まれない方が良いのです。

ですが「生まれえぬこと」は人間の選択肢の中にはありません。どこかの誰かがその本能に従ってセックスすれば生命は発生し、否が応にも命を与えられた者は脈動し始めます。本質的にここに「意味」などというものは何もありません。生命が生殖活動をした結果別の生命が生まれる事は、システムに規定された事にそのまま従ってそのまま正常にシステムが動いている事の証明でこそあるでしょうけれど、それ以上の意味なんて何もないのです。特別な誰かなんてものはそこに存在せず、飽くまでも後付け設定のパラメータによって生まれる幻影でしかないのです。
そもそも人間が社会を形成する群体としての生命形態を持ち合わせている以上、この社会においては誰しもが代替可能な部品でしかありません。私が私である意味、あなたがあなたである意味などというものは客観的に規定されうるものでなく、誰かが死ねばその死んだ誰かは記憶となり新しい誰かがその隙間を埋めるだけです。

意味なんて本質的には全く存在しないからこそ、人は愚かにも意味を求めようとします。組織の中で特別な地位を得たい、世界の歴史に名を残すような偉人になりたい、というような社会システム内における存在の意味探求はその一つです。或いは、あの人と特別な関係になりたいという恋愛感情であるとか、息子・娘を育てて一人前にしてやりたいという親子の情というものも人間関係システムにおける存在の意味探求であると捉える事ができます。いずれにせよ人は無味乾燥な生命システムの産物としての自我をそのまま受け入れられず、人生の様々なポイントで自分の存在する意味について考えながら行動する事となります。意味が何もないまま死を迎えてしまったら、誰一人としてその人の事を記憶に留める事も無く、何かの記録に残る事も無い、謂わば「本当に存在したかどうか分からない存在」となってしまい、人は完全にその存在を消尽しまうためです。

「存在の意味探求」にとらわれる人であればあるほど、基本的に色々な事に手を出しているように見えます。ある一つの道に進む事で得られる意味は限られているし、だからこそ複数の分野・複数の場面で自分の意味を試す事に躊躇いがありません。
私は自分自身で(かなり悪い意味で)こういった「存在の意味探求」にとらわれ続けて生きてきています。自意識過剰と被害妄想と加害妄想の塊のような生き方をする中で、どこかに自分自身の本当の存在意義があるんじゃないかとずーっと考え続けています。

 

快楽の生き方

これと真逆の生き方として「一つの事に集中する」という生き方があります。一見してこういう生き方をする人は視野が狭かったり、自分がこれと決めた事だけで生きていたりするため、幸せからは程遠い生き方をしているようにも見えます。
ところが往々にして、日本において最も幸せな人生を送る人はこの「一つの事に集中する」という生き方をする人です。

少し考えれば当たり前の事です。正確に一つの事に集中し、それを見据えて常に生きている人は、肉体的にも精神的にも自然とその形に最適化されていきます。起床し朝食を食べ会社や学校へ行き帰ってきて夕食を食べ就寝する、その全ての生活プロセスが一つの事に対して徐々に最適化されてゆけば、学校でも好成績を収めることは容易になってゆくでしょうし、会社でも良い業績を出すためのコンディションが自然に整います。
こうして考えると、実は一つの事に集中して生きるという生き方は、実は快楽や幸福に対して最も最短距離で到達する生き方であると考える事ができます。余計な事を一切考えず、クリアな状態を頭の中で保ち続け、そして澄み渡った人生を真っ直ぐストレートに歩んでいくという方法は、それ自体実は最も快楽的・幸福主義的な生き方なのです。

羨ましい事に「人生に殆ど迷いがない人」というものが東大には山ほど存在しています。よくよく見ていると、そういった人々に共通する生き方として、各人が己の最適解を定めて、それ以外に目を向けていないという事が非常によくあります。ここで重要なのは「正解」ではなく「最適解」を求める所です。正しい人生なんてもんは最初から存在していないし、だからこそ最も自分自身に合致した「最適な人生」を想定して、それを実現するために努力する所に東大に生きる人々の非凡さがあると言って良いでしょう。

基本的にこういう人達は最優先で自分の必要とする知識を獲得しに行くし、それ以外の事には元から殆ど興味がありません。学校だろうが会社だろうが勝手に組織の中で必要とされる立場に行き着くし、勝手に出世街道をストレートに進行していきます。

 

意味は有るか無いか

つまり「意味は有るか無いか」で人生の歩き方が丸ごと変化してしまうという事になります。意味にとらわれなければ、幸福と快楽を真っ直ぐ追及して歩いて行けるので、人生は意外とラクです。しかし意味にとらわれると人生は破滅的な困難と苦痛の連続によって成立するようになるので、基礎的に全てが地獄になります。

はっきり言って意味なんてありません。意味を求めて苦しむぐらいならばさっさと自殺した方がよっぽどか賢明だと思います。それでもなお意味を求めようとするならば基本的に破滅する事をどこかで受け入れた方が良いかもしれません。

意味なんて何にもねーから私は好きな事だけやって生きて行く、と簡単に一言で終われるぐらい精神的に強い人だったらそもそもこんな事を考える必要は一切ありません。自分の信念に従って真っ直ぐ生きて行くだけです。
しかし世の中には私を含め、人生が迷路のように入り組んで曲がりくねった道を歩み続けるしかない人間もいます。それでもその中で少しでもマシな生き方ができれば良いんですけれど、中々それも難しい事のようです。

f:id:weaverbird:20160325064721p:plain