驟雨の標

困った人の長話(記述言語版)

哲学:可能性と個の単一性

眠っている時にふと考えました。
私のこれまでの人生は、自分自身の可能性を切り拓く道であっただろうか?

結構重要な事だと思ったので、眠っているのを中断して少し真剣に考えてみました。
どれ程好意的に見積もったとしても、私のこれまでの人生は可能性を切り拓くものではありません。可能性を捨てて行く事でしか成立していません。

それは何故なのか、どうしてそういう人生を歩んでいて、ヒトは普通どのような人生を歩むものなのか。そう考え始めていたらますます目が覚めて参りました。

人は可能性を捨てることで個を確立する

という結論に至って、少し涙が出ました。
以下それについて。

 

受精卵→赤ん坊
生物学的可能性の確定

人は受精卵より始まり、母親の胎内で胎児として育って始まってゆきます(※)。ところが既にこの段階から「可能性を捨てること」が始まっていると言えます。

受精卵の段階では全ての可能性が保存されています。その人は数ヶ月後に産声を上げてこの世に生まれ落ちる可能性も存在するし、残念ながら流産によりこの世に生を受けず消えてしまう可能性もあります。或いは堕胎されて、初めから存在を認められない可能性だってあります。つまり生と死の両方を含めて完全に全ての可能性が保存された条件にあります。

ところが受精卵が細胞分裂を繰り返し、父と母両方の遺伝子によって生体としての構造が象られてゆく段階になると、状況は少しずつ変化してゆきます。遺伝子によって身体の構造が決定されてゆき、ある者は金髪碧眼になり、またある者は黒髪褐色になるかもしれません。遺伝子による生物学的な運命は、胎児として母親の中で育ってゆく限りでかなりの精度で確定されてしまいます。どれ程嫌がったとしても黒人は白人として生まれる可能性を捨てることになるし、アジア人がヨーロッパ人として生まれてくる可能性も生物学的には完全に捨て去る事になります。

つまり、この世に生まれ落ちて産声を上げた段階で、その人の生物学的な運命が確定し、そのほかの生物学的な可能性が棄却されてしまう事になります。アメリカ人ならアメリカ人に、美人なら美人に、イケメンならイケメンに育つし、それが構造的に変化する可能性はごく僅かな例外的可能性を除いてほぼ全てが棄却されます。

(※人は本当に受精卵から始まるのか、みたいな生命倫理学的な議論はここでは避けます)

 

赤ん坊→初等教育過程
社会的素養・思想的規格の確定

しかしまだ赤ん坊です。赤ん坊には極めて巨大な可能性が秘められています。もしかしたらその赤ん坊は将来アメリカ大統領になるかもしれないし、もしかしたら世界中の人々を大虐殺する最悪のテロリストになるかもしれません。
或いはその赤ん坊は敬虔な仏僧となるかもしれないし、イスラームへ帰依してムスリムとなるかもしれません。
先進国の飽食の世界で育って、食べ物が毎日食べられる事に疑問を持たないかもしれません。または発展途上国や紛争国家に育って、日々の食べ物にすら苦しむような生活になるかもしれません。

このように宗教・社会形態・国家・民族といった「規格」が選択され、それに伴った思想や社会的素養が決定されます。それによって複数の「それ以外の可能性」が棄却されます。
イスラーム国家でムスリムの家に生まれれば仏教に目覚める可能性は殆ど捨てられる事になりますし、先進国の飽食な環境に生きていれば「相手から食べ物を奪い取ってでも自分の食い扶持を確保する」という闘争的思想が生まれる可能性もかなり低くなります。

国によってはその中で民主主義であるとか、将軍様への崇拝であるとか、色々と追加的な思想が追加されていくわけです。民主主義国家に生まれれば独裁体制の国なんて悪に見えるし、北朝鮮のような独裁国家に生まれれば日本やアメリカこそ世界の悪の枢軸に見える事になります。

この段階で社会的な素養・思想的な規格が確定される事で、それ以外の可能性が棄却されます。日本人の小学生が一晩でサウジアラビア人になる事はないし、北朝鮮初等教育を受けた子供がその翌日に民主主義を礼賛する事も無いのです。

 

初等教育課程→中等教育課程
社会的将来性の確定

中学や高校ぐらいの年齢になると、誰しも将来を考え始めます。
小さい頃からサッカー選手を目指してサッカーの練習を続けてきた少年はそろそろクラブのユースチームとか下部組織に所属する事を考えても良い頃ですし、野球選手を目指すのならば強豪野球部に入って甲子園を目指すなどの考えを持つようになります。
企業の技術職を目指したいから勉強を頑張って良い大学を目指そうだとか、ケーキ屋さんの夢を目指すべく専門学校に入ってパティシエを目指そうとか、何らかの社会的な「理想の将来」を個々人がその意思によって選択する事となります。

このような「理想の将来」を決定する事によって、ここでもそれ以外の可能性が棄却される事になります。パティシエを目指す女の子がまかり間違って大正野球娘にジョブチェンジする事は殆どありえないし、サッカー選手を目指す少年が物語作家の道に目覚めて物書きを始める事も中々有り得ない事です。これはまさに「それ以外の可能性」が棄却された事によって個々のアイディンティティの形成が進行する事であると言えます。

 

中等教育課程→高等教育課程
社会システム内における自己の確定

大学でも最初の内は遊び呆けているだけかもしれませんが、上の学年になればなるほど自分が社会の中でどのような立場にあって、どのような職業によって自己を実現していくのかを考えるようになります。
ある人は文学部から出版社に入って編集者やら翻訳家やら、或いは作家を目指す人もいるでしょう。またある人は物理学部から大学院に進んで、そのまま物理学者としての自分の将来を描く人もいるでしょう。また別の人は医学部で医師免許を取って、そこから故郷に帰って開業医として働く事を志向する人もいるでしょう。

もう繰り返しになりますが、ここにおいても人は膨大な量の「それ以外の可能性」を棄却する事になります。文学部の学生が一念発起して医学部に入りなおすなんて話は聞いた事がない(※)し、工学部の学生が何かのはずみで文転して哲学者になるなんて話も滅多に聞きません(※)。

人によってはここで恋愛・結婚という道を確定させる人もいます。自分の家族を作って社会における自らの位置を確定させる事によっても、人は「それ以外の可能性」を棄却する事になります。
独身として生きていれば或いはいきなり転職してパティシエの道を目指す事もありえるかもしれませんが、家族がいて子供がいればそういった不安定な道を歩める可能性は限りなく低くなり、そこにあったかもしれない可能性は棄却され殆ど消滅する事になります。

(※大学においてはごく稀に文転・理転する人もいないではないですが、ごくごく少数です)

 

高等教育過程→社会人・職業人
組織における自己の確定

働き始めて最初の数年は新人として、或いは後輩・部下として、上司や先輩社員の仕事ぶりを学んで理解する過程が続きます。その後には、企業や組織の中である程度責任ある立場を任される事もあるかもしれません。

最初の期間で仕事のやり方を徹底して学ぶ事は企業人或いは社会人として重要な事です。その中で書類の書き方、得意先との話の進め方、プロジェクトにおける自分の役割、仕事と生活のバランスの取り方、…あらゆる事を学んでいく事で、ここでも「それ以外の可能性」を棄却する事になります。
精密で慎重な仕事を旨とする上司や先輩の下で働けば、大胆な判断によって大きな取引を動かすような仕事は苦手になってしまうかもしれません。また逆に進取の気質ばかり先行して個々の仕事を丁寧に煮詰める事を学ばなければ、やがてどこかで足を救われて仕事上大きな失敗を犯す事にも繋がってしまうでしょう。勿論その両方を最初の期間で学ぶ事が要求されている訳ですが、要求通りの人材を全て完全にそろえるなんて事は大企業でも困難です。どうしてもどの社員にも得手不得手がありますし、であればこそその部下や後輩にも得手不得手は出てくる事になります。

すると時間が経過していくにつれて、「得意で、他人より高効率に進められる仕事」と「不得意で、他人よりも低い効率でしか進められない仕事」というものが出てくる事になります。適材適所な人材活用を目指す組織であればそれに伴って部署の異動があったり、或いはクビになってしまう事もあるでしょう。
こうして人はこの段階で、組織の中においても「それ以外の可能性」を棄却していく事となり、可能性を棄却すればするほど組織の内部における自分のポジションというものが確定してくるわけです。

 

社会人・職業人→人生の黄昏
人生の意味合いの確定

そうして無数の可能性を捨て続けた果てに、その人の人生における可能性を総括する時期がやってきます。誰しも老人となるわけで、年老いて人生を振り返るような時期がやってくるでしょう。或いは不治の病によって不本意ながら若くしてその時期がやってきてしまうような人生を歩む人もいるでしょう。

この段階では「それ以外の可能性」はもうあまり残っていません。それまでに選択してきた可能性の積み重ねによって殆ど確定的な「最期の可能性」が待っており、そこから外れるような奇妙な死に方をする人もいないわけではありませんが、そんなに多くはありません。

仕事に邁進して大企業の重役となったような人でも、もしかしたら一生独身であれは孤独の内に死を迎えて消え去る事となるでしょう。そういう人は最期の瞬間まで仕事の事を振り返って考えているかもしれません。或いは家族と共に楽しい家庭を築き上げて、その中で子供たちや孫に看取られて死を迎える人もいるでしょう。そういう人は家族の幸せと繁栄を祈りながら穏やかな気持ちで逝けるかもしれません。
ここで例えば、家族も子供もいない老人が「自分の架空の家族」を考えながら死ぬなんて可能性はあまりないでしょう。また家族や子供に愛されている人が「最悪で孤独な自分の人生」に顔をしかめながら死んでゆくという事も中々無い事でしょう。

最期の瞬間にそれらしい死に方で死ぬことによってその人の生物学的・社会学的・情報学的な可能性の全てが完結し、限りない数の可能性の中からたった一つだけの可能性の道筋が完全に確定し完結する事になります。

死によって人が可能性を捨て続ける過程も終了し、それ以上その人の情報は変化する事もなく、完全に完結された「個」として成立すると考えられます。

 

まとめ

このように考えれば、人が生き、成長していく過程とは「可能性を棄却する道筋」に他なりません。

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確定、確定、確定と一つ一つのステップでそれぞれの可能性を確定させてゆくごとに、選択されなかったその他の可能性は全て捨て去られ、忘れ去られていきます。今現在何かのプロフェッショナルとして専門的な仕事に付いているだとか、大企業で高い地位にあるだとか、そういった個としての強い単一性を社会的に確立している人ほどより多くの可能性を棄却し、忘れ去ってきた人であると考えられるのです。

こうして人が生まれ、死んでゆくまでの間には無限の可能性が存在しているわけですが、(無限-1)個の可能性は捨て去られ、実際に選択されるのはたった一つの可能性だけであるのです。
そうして可能性を捨てて捨てて、捨て続けて行く果てに「わたし」が存在していて、それ以外の所には存在しえなかった「可能性のわたし」が無数に眠っています。人は「可能性のわたし」を捨てて、自分自身が持ちうる可能性を少しずつ削り取って捨てて行く事で、初めて「わたし」足りえるのです。