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驟雨の標

困った人の長話(記述言語版)

超克の物語:01.「弱さ」

某氏から「お前の哲学は何か?」と問われ、答えに酷く窮したので、振り返りの意味を込めて一度私の思想や哲学を書き留めてシリーズ化して整理しておこうと思います。短時間では私の頭の中にあるものを正確に語る事は無理ですので、ゆっくり自分で自分の内面を見つめながら書き出して行こうと思います。
私はどうしてこんな意味不明な道を歩んでいるのかについて、です。

 

超克の物語:
01.「弱さ」

 大よそ人はとても弱い生き物です。
能力的に優れているとか、精神力が強いとか、そういう一般的な個々人の強さは確かに存在しますが、明らかにそういった強さとは別次元に人間の弱さが存在していて、それはどんな天才でもどんな強者でも内面的に持っているものです。

いつからでしょうか、もはや自分でも正確な事は覚えていませんが、私が最初に理解した人間の特性は他ならない「弱さ」です。
私は他人よりも足が遅く、ドッジボールでも真っ先にボールを当てられて外野に出されるタイプの人間でした。頭も悪く、自我らしい自我を持っていない、大よそどこにでも一人は必ず存在するような、集団の中で「お荷物」として取り扱われる類の人間でした。学校の授業についていけず、授業中にクソを漏らしたり、とにかくどうしようもない程の落ちこぼれでした。
「私は能力にも意思にも欠け、何も持っていない。私は弱い」という言葉が、一番最初に私が自分自身を認識するに至った言葉だったのです。

それでも家に帰れば温かい家族と食事が用意されていて、毎日が幸せでした。頭が悪くとも、自我が無くとも、学校でクソを漏らそうとも、ただ日々を安閑と暮らしているだけで全てが平和裏に進行し、時間はゆっくりと流れていました。この時代には「弱さ」は全く問題にならず、無意識の下に存在する曖昧模糊たる不思議な物でしかなかったのです。

転機が訪れたのは小学五年生の時です。ここに書くような事でもないので詳細は伏せますが、私はそれまで親友だと思って信頼していた人物から劇的に裏切られ、酷いイジメに遭いました。
そのクラスは大よそ学級崩壊と言って良いような酷い有り様でした。小学五年生たちは皆自らの暴力性と攻撃性を誇示するためにナイフやトンカチなどの凶器を持ち歩き武装し、いざとなったら流血も辞さないような凄まじい睨み合いが教室内で平然と行われていました。
今まで安穏と生きてきた私がそんな環境で上手くやっていけるはずがありませんでした。徐々にクラス内の暴力に巻き込まれ、弱者として奴隷のように取り扱われ、徐々に私はそれまで温存していた人間性をすり減らして、機械のように何も考える事が出来なくなってゆきました。

そんな中で私に味方してくれる人がいました。その人は私の事を面白がって、いつも話しかけたり一緒に遊んでくれたりしたので、徐々に私はその人に親愛の情を覚えるようになり、人間性を少しずつ回復していきました。
しかしある時、その人は私を裏切りました。大よそ小学生に考え付く方法の中で、最も直接的で最も劇的な方法でその人は私を裏切りました。「ああ、私は裏切られたんだ」と理解した瞬間の、恐ろしい程の絶望と恐怖は未だに私の心の中に深く深く刻み込まれていて、未だに私を苛みます。

そこで初めて私は真剣に「弱さ」について考え始めました。もはや私は自分自身の弱さを無視できなくなりました。弱さは恐怖に繋がり、恐怖は心を破滅させると知ったのです。そこから初めて私の自我がスタートし、それ以降の記憶を「自分のこと」として認識できるようになりました。
折しも学習塾に通い始めた頃合いで、今まで難解な呪文にしか聞こえなかった学校の勉強が実は極めて取るに足らない、単純な原理原則に基づいたシステムでしかない事を知りました。この頃の自分は周囲の人々を観察し、一つのある結論を導いていました。
「人は全て自分の中の弱さに従って行動し、時にそれを言い訳にして他者を傷つける」

そういう視点で周囲の同輩たちを見つめ続けていました。見つめ続けて、ひたすらにヒトとはどうしてこんなにも弱い生き物なのかと考え続けていました。学校の窓からドッジボールに興じる同輩たちを見つめて、「どうして彼らはこの弱さを前にして平気でいられるのだろう?」なんて事を延々考えていました。いわゆる世の中を斜に構えて見る類のマセガキでした。

しかし「裏切られた」という真実と、その精神的衝撃から立ち現れるものは本物だったのです。それだけは十数年が経過した今に至っても私の心の中で悲痛な音を上げ続けています。

そこから次の極限が訪れるまでには、そう時間はかかりませんでした。